富士山と樹海の出逢いを提供する冨士エコツアー・サービス 富士山おもしろ話集

富士山の面白い話を集めてみました。


富士山のおもしろ話


富士山に関係する面白い話を集めてみました。




「ふじ」の語源は?
何故『ふじさん』と呼ぶようになったのかの定説はない。アイヌ語で火の山を指す『ふんち』や『ぷし』。朝鮮語で火を意味する『ぷる』『ぷっと』。マレー語の素晴らしいを指す『ぷし』。古代日本語で斜面や垂れ下がりを指す『ふじ』。お碗を伏せる『ふせ』など、様々な説がある。そのほかにも、何故『冨士』と書くのかもよく判っていない。記録上で最も古い常陸風土記には『福慈』。万葉集では『不尽山』『不士能高嶺』『不二能嶺』。『冨士』と書かれた物は平安時代初期の続日本紀あたりが最初だと言われている。このほか『不死』『不二』とも書かれていた。
富士山は三階建て
「富士山は三階建て」と言われる事がある。今から70万年前から20万年前に一階部分である「小御岳火山」が生まれた。その後、10万年前ほど、二階部分である「古富士火山」の誕生である。以後、古富士火山は数百回の噴火、数回の山体崩壊を重ねた。現在の三階部分「新富士火山」のようななだらかな円錐形になったのは一万年前ほどだという。火山の寿命からいうと、富士山はまだ若い青年期の火山だ。最近では、小御岳以前に「先小御岳火山」と呼ばれる第四の火山があったとする調査結果も報告され、四階建ての可能性も出ている。
富士山の「富」は、ウ冠か? ワ冠か?
ウ冠の富は十二画、ワ冠の冨は十一画。陰陽の考え方では、奇数が陽となります。昔から陽は縁起が良いものとされ、現代でも「七・五・三」などに見られます。それにちなんで「冨士山」と書いた。有名な葛飾北斎の「冨嶽三十六景」は、ワ冠の「冨」。同じく北斎の「富嶽百景」では、ウ冠の「富」の字を使っています。全国にある「冨士浅間神社」は、すべてワ冠の「冨」を使っています。
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富士山が見える南限と北限は?
富士山ほどの高い山でも、さまざまな地形により、遠くても見える場所もあれば、近くても見えない場所がある。富士山が最も遠くから見える場所は、北限では、福島県岩代町の日山(標高1057m)で、富士山との直線距離は299㎞。南限は和歌山県にある那智山の妙法山(標高749m)で、富士山との直線距離は322㎞になる。ただ、ここまで離れていると、条件がよくないとなかなか視認しづらい。逆に近い場所でありながら、西湖の湖畔は足和田山が邪魔をして見えないし、甲府盆地も南部になると山にさえぎられてしまう。
富士の付く市町村は、全国に10ヶ所
富士という字が付く市町村(自治体)は、全国に10ヶ所あります。ほとんどの市町村から富士山を仰ぎ見ることができる場所にありますが、例外が二つ。北海道の「利尻富士町」と佐賀県の「富士町」です。それ以外の市町村と県名を挙げると、富士川町(静岡)、富士市(静岡)、富士宮市(静岡)、富士見市(埼玉)、富士見町(長野)、富士見村(群馬)、富士吉田市(山梨)、富士河口湖町(山梨)の八つで、合計10ヶ所となります。
全国の○○冨士
日本の国立公園の九割が火山である。いずれも噴き出した溶岩と火山礫が交互に層をつくって円錐状になった成層火山と呼ばれるもので、火口の位置が動かなければ富士山のようにバランスのよい形となる。教科書では「コニーデ式火山」と教えていた。代表的な成層火山としては、北海道から蝦夷富士「羊蹄山」。津軽富士「岩木山」。南部富士「岩手山」。山形の出羽富士「鳥海山」。中国・四国地方の伯耆(ほうき)富士「大山」。そして九州地方の薩摩富士「開聞岳」などがあります。
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富士山最初の登山者は?
古代の富士登山については多くの伝説が伝えられており、最初の登山者は明らかになっていない。古くは、聖徳太子が甲斐の名馬「黒駒」を駆って登山した伝説や、修験道の開祖・役の行者の登頂、秦の始皇帝の命を受けた徐福が不老不死の霊薬を探しに冨士に登ったなど、様々な伝説がある。だが、実際に登山した記録としては、当時の大学者であった都良香(みやこのよしか・834~879年)が書いた「富士山記」が最古ではないか、と言われています。
富士山最古の登山記録
富士登山の最古の記録としては、平安時代初期、当時の漢学者で文人だった都良香(みやこのよしか・834~879年)が書いた「富士山記」(本朝文粋)がある。その中に富士山頂の様子が書かれている。『・・・頂上に平地あり、広さ一里ばかり。その頂の中央に窪み有りて、体水甑(かたちすいそう・ものを煮るコシキ・蒸し器)の如し、甑(こしき)の底に神しき池あり。池の中に大きなる石あり、石の体驚奇なり、あたかも蹲虎(うずくまる虎)の如し、またその甑の中に、常に気有りて蒸し出ず。その色純らに青し・・・』云々とあり、平安の初めに実際に富士登山に成功した者がいたと考えられています。
富士山に初めて登った女性
富士山は、平安時代から多くの信仰の山と同じく女人禁制とされてきた。ところが、江戸時代の1832(天保3)年、江戸の高山たつが旧暦9月26日(現在の10月下旬)、初めて登頂したと言う。たつは、男装して富士講行者に紛れるようにして吉田口から登った。江戸時代には女性は吉田口登山道の二合目にある御室浅間神社(後に富士河口湖町勝山の里宮に移った)までしか登れなかった。そのために神社南東1㎞上に『女人天拝所』が設けられていた。
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富士山に初めて登った外国人
外国人として、初めて富士山に初めて登ったのは、英国初代公使のラザフォード・オールコックだ。1858(安政5)年、日本は鎖国政策を解いて開国。続々と外国人が日本に住むようになり、その中には、自国での趣味であった登山を楽しむ外国人もいた。1860(万延元)年7月19日、尊皇攘夷運動の活発な時期、幕府は百人近い護衛をつけて富士宮の富士山本宮浅間大社から村山口に到着し、7月26日ついにオールコック一行は富士山登頂に成功した。
冨士に見せられた男・ソロモン
富士山に魅せられて、富士山麓に初めて洋式ホテルを建てた男の名はソロモン。彼は船員だったが航海の途中、ソロモン群島にとどまったのが愛称「ソロモン」の起こりだという。1892(明治25)年ごろ日本に来て、富士山に魅せられ、その周辺を詳しく調査した。1895(明治28)年、精進湖畔の宇ノ岬に県内初の外国人専用の洋式ホテル「精進ホテル」を建設。本名ハリー・スチュワード・ウォールズ。日本名星野芳春という。イングランド南部生まれのイギリス人。
日本一でなかった富士山
富士山が「日本一高い山」であることは言うまでもないが、1895(明治28)年から1945(昭和20)年まで、日本一の山ではなかった。台湾を日本の台湾総督府が統治していた時代には、台湾島の中央部にある標高3952mの玉山(ゆいしゃん)(旧称・新高山・ニイタカヤマ)の方が富士山よりも標高が高いことから、当時の教科書などには、新高山(玉山)を「日本一高い山」とした記述もあった。
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富士山にある三つの幻の水
(1)幻の池/春、山頂の雪が溶け始めると富士山頂に「コノシロ池」と呼ばれる池が突如として出現する。あの乾いた溶岩群のなかに水が溜まるのが不思議だ。
(2)幻の滝/富士山中腹の沢と呼ばれるところに雪解け水があふれ、突如として滝が現れる。一時的な現象なのでなかなか出会うことはない。
(3)幻の湖/精進湖近くに赤池と呼ばれる場所があり、富士五湖の水位が上昇した時だけ湖が出現する。一度出現するとしばらくは枯れないといわれる。
幻の湖・富士六湖の年
富士五湖のひとつ、精進湖の近くに「赤池」と呼ばれる場所がある。大雨が続き富士五湖の水位が上昇した時だけ出現する湖がある。大きさは長軸 約100m、短軸 約20m~30m、深さ 約7m。通常は窪地になっていて水はありません。精進湖には湖水の流出口がありません。そのため水位が上がると地下水が「赤池」にも湧き出して、水が溜まるとみられています。この年を富士五湖ならぬ「富士六湖の年」と呼ばれています。
まるび(丸尾)って何?
富士北麓には「丸尾(まるび)」が付く地名が、数多くあります。富士吉田市の剣丸尾、桧丸尾、土丸尾、山中湖村の鷹丸尾、鳴沢村の前丸尾、ジラゴンノ丸尾などです。「丸尾」とは、富士山の新しい溶岩流の内、中腹から噴出して、流れ下ったものを指しています。漢字は当て字ですが、語源は「転び(まろび)」で、溶岩がゴロゴロ転がっている様子を言い表したと言うのが有力とされています。この「まろび」が「まるび」に変わったようです。他県の溶岩には「丸尾」が付く例がなく、富士北麓独特な方言が付けられています。富士最大の溶岩流「青木ケ原丸尾」は、特別に通称名「樹海」と呼ばれています。
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「合目」って、どうして決めた?
夜、登山する時に灯した明かりの油が一合分、消費された場所が一合目と言う説。それと道しるべに撒いた米が一合なくなった所が一合目と言う説。梵語の「劫」から来ているなどが、もっともらしく言われていますが、そう都合よく頂上で十合全部が無くなる筈がありません。当たり前すぎますが、登山口(馬返し)から頂上までの距離と難易度を十等分したものを合目と言うのが妥当でしょう。したがって、登山口の高さが違えば、合目の高さも違ってきます。
富士見酒って、どんな酒?
江戸時代、江戸には良い酒がなくて、主に関西から運ばれていた。はじめは馬に積まれ、のちには廻船で運ばれるようになり、これを「下り酒」と洒落た言い方をして、富士山を見て来た酒。すなわち「富士見酒」と呼んだ。杉の樽の中で、酒はほど良く杉の香りを取り込み、また揺られることで、練れていい味になった。のちには関西で消費される分も、わざわざ船で富士山の近くまで運び、また引き返すという事もしました。「くだらない」の語源も、この「下り酒」から来たという説もあります。
不知火型土俵入りの富士山
山中湖畔から見る富士山は、富士山の左右の稜線にひとつづつ、コブが見える。向かって右側のコブは、最初の富士山。つまり70万年前から20万年前ごろに、海の中から噴火して出来上がった「小御岳火山」である。左側のコブは、富士山の最後の噴火、300年前(1707)の「宝永火山」である。この左右のコブがある富士山は、人により好き嫌いはあると思うが、山中湖に住む地元の人たちは、「大相撲の不知火型の土俵入りの最後の競り上がりを表す富士山」として、自慢の富士山なのだ。
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銭湯の富士山
銭湯といえば、浴槽背後に広がる富士山の雄大な壁絵。ある意味、日本の風呂文化の象徴でもあった。この富士山のペンキ絵は、大正元年、東京の神田猿楽町の「キカイ湯」が始まりで、静岡県掛川出身の川越広史郎氏の筆によるものです。昭和46年に「キカイ湯」は廃業となりましたが、その地のビルの前に「ペンキ絵発祥の地」の碑が建っています。キカイ湯のキカイとは、船舶のボイラーを風呂釜に使用したためということらしい。
一番早い初日の出は?
日の出の時刻は緯度、経度と標高が大きく影響する。元旦の太陽は日本の南東から昇ってくるから、日本一早い初日の出は、最東端の「南鳥島」ということになるが、ここは無人島。最南端の「沖ノ鳥島」も無人。この両島を除くと、日本最初の初日の出は富士山頂となる。富士山は、犬吠崎より西に200㎞にあるにもかかわらず、高い分だけ遠くが見渡せ、日の出も早くなるという訳。逆に富士山の西麓、富士河口湖町富士ケ嶺(旧上九一色村)は、富士山に遮られ初日の出が遅く、午前8時ごろになる。
富士山麓のモグラ戦争
富士山の地中でモグラの闘いが繰り広げられているという。一方の「アズマモグラ」は、かって日本全国に分布していた種族。体長は約14㎝で、体重60gほど。かたや「コウベモグラ」は、アズマの後に大陸から入ってきた種族。大ぶりで体長約16cm、体重100gほど。コウベが体力にものをいわせて九州から徐々に東へ勢力を広げ、アズマは後退した。現在は、富士山地の下の硬い溶岩などがコウベの進出を拒み、抗争は、朝霧高原辺りで膠着状態となっている。
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インデヤって何?
山梨の甲州特産品に「甲州印伝」がある。粋な甲州印伝は、戦国時代に武具の素材として好んで使われた鹿皮に、漆で模様を付けたもの。地元では、「インデヤ(印伝屋)」と呼ばれ、南蛮貿易によつてインドからもたらされたと言われているから「印伝」。印伝で良く見る絵柄に蜻蛉(トンボ)がある。トンボは前にしか飛ばず「勝ち虫」と呼ばれることから、縁起が良いと特に好まれる絵柄だと言われています。
江戸時代のトラベラーチェック
江戸時代、硬貨ばかりで紙幣のない時代、「富士参拝登山」や「お伊勢参り」など、長期の旅には、たくさんの硬貨は重いだけでなく、無用心でもあった。そこで前もって支払いを済ませ、旅先で少しづつ現金化するという「為替屋」があった。現在のトラベラーチェックが、すでに江戸時代に存在していたわけです。
富士八海と富士八湖
富士五湖という呼称は、徳富蘇峰が昭和の初めに名付けたもので、大正末期までは泉水・山中湖・明見湖・河口湖・西湖・精進湖・本栖湖・四連湖を合わせて「富士八海・富士八湖」と呼ばれるのが一般的だった。富士信仰が水量の多寡よりも「八」という数字に重きを置いたためらしい。この富士八海を巡る信仰の行事が「内八海巡り」で、富士山登拝、御中道周布とともに富士講の三大修行のひとつだった。
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駿河と甲斐のどちらの富士が美しい
山梨県側から見る富士と、静岡県側から見る富士山は、どちらが美しいか?永い間の永遠のテーマであった。しかし、実は江戸時代にすでに決着がついていた。江戸時代の狂歌師・大田蜀山人(1749(寛延2)年~1823(文政6)年)の歌に『娘子(むすめご)の 裾をめくれば 富士の山 甲斐(かい)で見るより 駿河(するが)一番』とありました。
富士北麓に鶴の里がある
中国を初めて統一した秦の始皇帝は「徐福」に命じて、東海の果ての蓬莱の国(日本)の芙蓉山(富士山)に不老不死の妙薬を探しに行かせた。徐福は数千の家来と共に船に乗り、困難な旅の末、ようやく富士山の麓にたどり着きました。しかし、そこに始皇帝の死を告げる使者がやって来ました。一行は困難な旅を思い帰国せず、この地に住み着き、中国の土木や織物の技術を周辺に伝えた。やがて年老いた徐福は鶴となって、この地を見守り、いつしか人々はこの辺りを「鶴の郡」と呼ぶようになり、現在の「都留郡」になったと言われています。
不老不死の妙薬・コケモモ
今から約2200年前(紀元前200年)、秦の始皇帝(BC221~206年頃まで15年間の王朝)は、不老不死の霊薬を探すため、家臣の徐福に命じて、数千の家臣と童男童女に百職百工を伴って日本に遣わした。その徐福が苦労の末、やっと見つけた不老不死の霊薬が富士山に自生するコケモモだったと言われています。その後、始皇帝の死を知った徐福は帰国を諦め、この地に残り、優れた土木や織物の技術を伝えた。その子孫たちが「秦(はた)」「羽田」「波多」氏を名乗る人たちだと言われる。コケモモはこの地方では、ジャムやジュースなどにしたり、「はまなし」の名でお菓子になったりしています。
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百済人を甲斐に移す
山梨県の郡内には「丸」の付く山が多く、大菩薩連峰南の大蔵高丸、白谷ケ丸、丸山、鳥屋ケ丸、犬目丸、本社ケ丸など、20の山があります。全国でも珍しい集中度で、山梨県の国中にはほとんどない。「マル」は、古い朝鮮語の山や峰を指す言葉が語源。その根拠として、持統天皇紀や続日本書紀に「百済人を甲斐に移す」と書かれている事を挙げている。600年代後半から700年代後半にかけ、多くの百済人が桂川流域に移り住んだ。その渡来人が付けた山名であることは、ほぼ定説となっています。
一冨士、二鷹、三茄子とは?
もともと駿河の国(現静岡県)のことわざで、縁起の良い夢を順に並べていう言葉である。様々な説があるが、そのひとつを紹介いたします。徳川家康が駿河城に居る時、初ナスがあまりにも高かったため、その値段の高さを「まず一に、高きは冨士なり、その次は足高山(愛鷹山)なり、その次は初茄子」と言い表したと言われています。ちなみにもうひとつ、家康がらみで言うと、天下を取った家康の好物を単に並べただけと言う説もあります。「一富士山、二鷹狩り、三茄子」と言う訳。
富士山をペンキで赤く塗り潰す作戦
第二次世界大戦中、アメリカ軍では富士山を赤いペンキで塗りつぶす作戦があった。CIAの前身『戦略情報局』内には、大戦当時『神経戦部』という部署があり、日本人の士気を落とす作戦が練られた。日本人がこよなく富士山を愛している事に目を付け、その富士山を赤く染めれば日本人の士気を下げる事が出来ると考えた。作戦にかかるペンキの量を計算したところ、約12トン。更にそれを運ぶB29が約3万機必要となった。想像を超える事実に上層部は即座にこの作戦を諦めたという。
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山頂へのトンネル・ケーブル計画
1960年代初め、富士急行によって富士山の山頂までトンネルケーブルを走らせる計画があった。計画によれば地質的に最も安定した富士山南西斜面の下をくり抜くもので、富士スカイラインから南側に始発駅を設け、途中、八合目で乗り換える形を考えていた。路線は最深部で地中35.4m、浅いところで地下6.6mを進むケーブルは、山頂まで12~13分で行く。当時のキャッチコピーは『ハイヒールで日帰り登山』だったが、自然保護を配慮して計画は中止になった。
富士講とは何か?
富士講の「講」とは、民間信仰のひとつの形態。宗教上の目的を達成するために信仰を同じくする者が寄り合って結成している信仰集団を指す。富士講とは、民間の山岳信仰で、富士山を登拝することを目的として結成された江戸時代に一般庶民にまで広く浸透した。近年以降は「丸山教」や「扶桑教」などの教派を作り、それぞれの集団で登拝した。他山の講としては、「御岳講(木曾の御岳)」などがある。
お札になった富士山
写真家の岡田紅葉(1895~1972年)は、早稲田大学在学中の1914(大正3)年、初めて富士山の写真を写し、その虜になったと言う。その後、紅葉は生涯に十万枚を超す冨士の写真を撮ったといわける。その努力と執念が数々の名作を生んだ。『忍野冨士』は有名だが、本栖湖畔からの富士山には定評がある。旧5000円札と新1000円札の裏に描かれた逆さ富士は1936(昭和11)年に発行した『富士写真集』の中の作品を参考にしたと言われている。
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逆さ冨士のミステリー
旧五千円札と新千円札に富士山が描かれて入る事はご存知だと思いますが、本栖湖に写る「逆さ冨士」。このお札の上下を逆さまにして見ると、富士山とは異なる形の山が現れる。日本人が「逆さ冨士」だと信じてきたこの山は、エジプトにあるシナイ山の姿だと言うミステリー。世界の金融を支配するのはユダヤが、とうとう日本の日本銀行までも、その支配下に置き、密かにユダヤ教のメッカのひとつ「シナイ山」を人知れず図柄の中に描きこんだと言うミステリーなお話でした。表の野口英世の顔の右半分を隠すと、やはりユダヤ人の顔が現れる(?)。
噴火を鎮めるための浅間神社
西暦864(貞観6)年5月、富士山が大噴火を起こし、約48㎞四方を焼き、甲斐国から溶岩があふれ本栖湖を埋めた。さらに7月、甲州国からも溶岩が本栖湖、せの海を埋め、人家を没して火炎は河口湖に向かったという。世にいう「貞観の大噴火」である。これに恐れをなした朝廷が「祭礼の怠慢のため神明がたたりを発したのだ。」と警告。翌年に浅間神社を祀らせた。つまり今でも浅間神社は、富士山の噴火を鎮めているのだ。
ドッコイショ(六根清浄)とは?
江戸時代「富士講」と呼ばれる信仰にもとづいて富士登山を行う事が盛んでした。「先達(せんだつ)」という名のリーダーに導かれ、白装束に身を包み、手には金剛杖を持ち、『六根清浄、お山は晴天』などと唱えながら山頂を目指した。六根(ろっこん)とは、「目、鼻、耳、舌、身、意」つまり、人間の知覚のことです。清浄(しょうじょう)とは、六根から生じる様々な欲望を捨て、清らかな富士登山をするという意味。現代の『ドッコイショ!』という掛け声は、この六根清浄が訛ったものと言われています。
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ジラゴンノは白亜紀の恐竜?
ジラゴンノとは、富士北麓にある鳴沢村にある字名のこと。国道139号線沿いにある「道の駅なるさわ」周辺。何とも神秘的な響きが耳に心地好く感じられるこの地名、その由来には諸説あり、「コンノ」は富士山の溶岩台地にある低木地帯を指す言葉とされ、神聖な山の裾野という意味の「神野(かむの)」が変化したと考えられる説。噴出した白い溶岩「シラ」で覆われた神野の意か。村の開拓者とされる「次郎権現野(じろうごんげんの)」が訛ったという説もある。それにしても何故、カタカナなのか?白亜紀の恐竜を思わせる名は謎に包まれている。
山梨独特の苗字「藥袋」
山梨県独特の名字に「薬袋(みない)」さんがある。晩年病気がちだった武田信玄が身に付けていた薬袋を落としたところを家来に見られてしまい、病気である事を知られてしまうと困るので口止めのため「薬袋は見なかった事にしろ」と云う意味で、名字を与えたと言う説や、「薬袋を見ない」ほど健康な村(現早川町薬袋)に由来すると言った説がある。他に山梨県独特の名字には、「貴家(さすが)」「流石(さすが)」「功刀(くぬぎ)」「神座(じんざ)」「日本(ひのもと)」「輿水(こしみず)」「輿石(こしいし)」「保延(ほのべ)」「鬢櫛(びんぐし)」などがある。
洞穴と洞窟はどこが違うの?
富士山麓には「風穴・氷穴」と呼ばれる溶岩洞穴が数多く見られます。その数は80数洞が確認され、長さ10mほどの小さなものまで含めると、ゆうに100を超すといわれています。洞穴も洞窟も、物で囲まれた空間を意味し、「洞」は、一般に自然に出来た大きいものを表現する。「穴」は、自然と人工、大小を問わず、この種のものの総称です。「窟」は、イワヤと読み、岩屋を意味する。人間が住んだり、寺院を建てたり、仏を祭ったりする程度の大きさを持った浅い洞穴に、この字を当てている。ちなみに文化庁指定史跡名勝天然記念物に「洞穴」はあっても「洞窟」の名はない。
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富士山に湧き水はない
富士山といえば「富士の湧き水」のイメージが定着していますが、実は、富士山には水の流れる沢も川もなく、池や湧き水もありません。富士山がどこまでか、という定義にはいろいろな意見があるが、富士山の砂礫や溶岩は、玄武岩と言う水をよく浸透させる性質を持ち、降った雨や雪はすべて地下に吸い込まれ、西から時計回りに、西の富士宮の浅間大社の湧玉池、白糸の滝、北に富士五湖、東に忍野八海、南に三島の湧水群など。湧水の湧く水の名所の内側が富士山なのです。
富士山のバナジウム
富士山の水には、バナジウムが多量に溶け込んでいる事が、近年知られてきた。玄武岩の溶岩層を通過している間に染み込んでいったもの。玄武岩は地表に噴出したマグマが瞬間的に固まってできる岩石で、豊富なバナジウムを含んでいる。そのバナジウムは、人間の体内で血糖値を下げる役割のインスリンと同程度の働きがあると云われています。最近、アサヒビールから「富士山のバナジウム水」ほか、多くのメーカーからミネラルウォーターとして売られています。
マグロ消費量日本一は山梨県
山梨県は全国マグロ消費量日本一である。山梨のお祝い事や、人寄せの時には必ず煮豆、きんぴら、マグロのブツ、手打ちうどん、まぜご飯が定番。昔(40年位前)、マグロは沼津港、清水港、焼津港などから入ってきていた。大物(50キロ以上)は、東京の築地に卸され、小物(30キロ以下)は近隣の山梨に入荷していた。大物マグロは脂のノリが良いのですが、赤身は小さなマグロの方がキメが細かくて、舌触りが良く、食べるとはまりやすいそうです。他県では刺身と言えば、マグロと白身魚(鯛や平目等)の両方を指すが、富士吉田では刺身といえばマグロの赤身だけを指す。
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山梨出身力士「○○富士」
富士山は日本一を表すので、相撲の四股名(しこな)によく使われる名だが、じつは山梨県出身の力士が多いという。戦前に活躍した富士ケ嶽(のちの若港)を始めとして、「富士」の四股名を全国にとどろかせたのが、幕内優勝をした押し相撲の富士錦。小結まで昇進した富士錦を慕って、山梨から入門する力士が続き、ほとんどが「富士」を用いた。(富士晃、富士昇、富士桜など)。意外にも、同じく富士山を擁する静岡県出身の力士は少ない。
青木ヶ原樹海が自殺の名所となった訳
青木ヶ原樹海と言えば「自殺の名所」として語られることが多い。樹海が恐ろしい所として一躍有名になったのは、今から50年前。昭和34年(1959)に、当時の週刊誌「女性自身」に一年にわり連載された松本清張の小説「波の塔」による。小説の中のヒロインが、ラストシーンで西湖のほとりで睡眠薬を飲んで樹海へ消えると言うラストシーンが、当時の若い女性の間で評判となり、自殺の名所として全国的に有名になった。その後、松竹でヒロインを有馬稲子、相手役の若き検事役に津川雅彦で映画化され、その後もたびたびテレビドラマ化もされた。
「無尽会」って何?
山梨県内を歩くと、しばしば「大小宴会・無尽会承ります」などの看板を掲げた飲食店が見受けられ、山梨では馴染み深いものとなっています。無尽講、頼母子講(たのもしこう)とも言う。鎌倉時代に生まれたとされ、牛や馬を共同で調達したり、労動力を提供し合ったりなど多様な形態が存在した。数人から数十人が集まって定期的に掛け金を払い、抽選や入札で金額を受け取る。お金に困った人や特定の人物を優遇、救済する一種の庶民金融の組織でした。それがやがて相互銀行(現在は地方銀行)などの地域金融機関に発展した訳ですが、山梨県内には今もその「無尽」が存在しているのです。「無尽」が特に盛んなのは、甲府市周辺と富士吉田市周辺である。
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綱吉の不人気は富士山の噴火のせい
徳川五代将軍・綱吉の治世は、優れた経済政策のもと、近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉といった文化人を生んだ元禄期の好景気の時代だった。それなのに「生類憐みの令」など悪政の将軍として忠臣蔵や水戸黄門のドラマの中で何かと評判が悪い。その原因のひとつに元禄16年(1703)に起きた元禄大地震、つづく宝永4年(1707)の宝永大地震、・富士山の宝永噴火など度重なる自然災害がある。現代では治世の評価を左右するものとは考えにくいが、当時は「天罰」と受け止められても仕方ないものであった。
富士山頂には8つの峰がある
富士山は、古来より神仏の住む霊山として崇められてきた。その山頂は、阿弥陀如来の浄土や八葉九尊という信仰による世界観がありました。八葉九尊の八葉とは仏が坐す蓮華座に例えたものです。この蓮華の八枚の花弁を山頂の峰々になぞらえて、それぞれに仏を配したものです。また「芙蓉峰」「芙蓉八朶」など、蓮の花弁に例えた八葉と関連する富士山の異称もみられます。このことから山頂を「八葉の峰」とするようになったと解釈されています。これは峰の実数ではなく、あくまでも「八葉」という観念的な解釈に由来しているものと考えられます。
富士山頂は、かって日本最大の賽銭箱だった
富士山そのものを御神体と崇めていた信仰登山の時代、無事登頂を果たした人々は、さまざまな御利益を願って、富士山頂の火口にお賽銭を投げ入れていた。つまり直径800m、深さ200m、東京ドーム約40個分の火口そのものが巨大な賽銭箱だったのだ。今も火口から江戸時代の古銭が発見される事があります。なお、現在では自然保護の観点から火口にお金などの異物を投げ入れてはいけません。
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富士の風穴が江ノ島につながっている話
富士山の「人穴(ひとあな)」と呼ばれる火山洞穴が、神奈川県の江の島に通じているという話。鎌倉時代の初め建仁3年(1203)に富士山麓で源頼家が巻狩りを行った際、家臣の仁田忠常(新田四郎)に人穴探検を命じ、家来とともに人穴に入った新田四郎忠常は、浅間大菩薩に導かれ、富士山の地底にある地獄を巡ったという話が基になったといわれているが、実際には当時の軍記物語の「曽我物語」や「吾妻鑑」「富士の人穴草子」にも、その記載がありません。鎌倉時代、富士山に対する信仰心から、当時の坂東武者たちが、己の基盤と繋がっているという伝説を作り上げたものと思われます。
富士山は一夜のうちに湧出した?
今から2300年前、孝安天皇92年に近江の国で大地震があり、国の二割が陥没するという出来事があり、一方、駿河の国では激しい地震と共に地面が持ち上がり、富士山が誕生したという話が、平安時代から鎌倉時代初めにかけて流布された。陥没した場所が琵琶湖で、一夜のうちに富士山ができたとする「富士山一夜湧出説」は、江戸時代にはかなり広まっていました。実際には富士山の体積は、琵琶湖の容積の50倍。すなわち琵琶湖を50回も埋められる量です。よく例えられる「東京ドーム」でいうと約110万杯という膨大な数字になります。
もうひとつの一夜富士物語
本栖湖は昔、アマンジャクという大力の巨人が造ったといわれる。この巨人が富士の裾の広い野原を掘り、その土を「もっこ」に入れて担いで、駿河の海岸近くに捨てた。夕方からせっせと掘って、ふたもっこ空けたら今の富士山ができた。アマンジャクはもっと高くしようと、もうひともっこの土を担いで途中まで行くと、東の空が白らんで来たので、仕方なくそこに土を捨てて、精進の方へ逃げ去った。途中で土を捨てた所が小山になって、今でも「ひともっこ山」といっている。側火山の大室山である。また、アマンジャクが土を掘った跡に水が溜まって、今の本栖湖になったという。「ひともっこ山」という名称は各地に多く、これが所謂「一夜富士」の物語である。
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富士山の「御縁年」とは?
富士山には、御縁年と呼ばれる年に登山すると、一度で60回登ったのと同じ御利益があるとされる年があります。孝安天皇92年庚申の年、一夜にして富士山が現れたとする「富士山一夜湧出説」に基づき、各浅間大社が庚申年をもって御縁年として開帳を行い、登山者の誘因を図ったのではと言われています。富士講の開祖・角行の伝承の中でも、永禄三庚申年(1560)四月初申の日、仙元大日のお告げを受けたとか、元和六庚申年(1620)大行成就というように、庚申の年や申の日にこだわっています。富士講の人々にとっても庚申の年は特別な年で御縁年とされました。外国人最初の登山者オールコックの富士登山も、万延元年(1860)の庚申御縁年だった。
伊能忠敬は富士山に登ったことがあるか?
江戸時代、日本全国を旅して日本地図を完成した伊能忠敬は、実際に富士山にも登ったのか? 忠敬の測量は、海岸線や主な街道を図って地図を完成させた。従って、忠敬は富士山頂に登っていない。遠くから目標となる山や、離れた島などは、その方向に小方位盤(しょうほういばん)で観測した。箱根から富士山を図った値は3097m。三島から3603m。吉原から3659m。西倉沢村(現由比町)から3732mだったというから驚きである。
本栖湖の湖底には縄文人の遺蹟がある
1990年ころ、富士五湖の一つ本栖湖に潜ったダイバーが、湖底でカメやツボの土器片などを発見し、本栖湖には水没した古代の集落があることが判りました。青木ヶ原溶岩流が本栖湖に流れ込み、水位が上昇、湖畔一帯にあった古代の集落を水没させてとみられています。1998年には、上九一色村(現富士河口湖町)が本格的な調査を行いました。その結果、湖底から、縄文時代から古墳時代前期(4~5世紀ごろ)の土器片など、約30点が引き上げられました。現在も多くの遺物が湖底に残っているとみられています。
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神となった伊奈半左衛門とは
宝永4年(1707)富士山の大噴火によって御厨地方(御殿場、小山町、裾野市の一部)は甚大な被害をうけた。小田原藩は救助に務めたが、復旧困難として幕府に御厨地方を返却した。一方、家も田畑も失った被災民は他に離散する者が続出し、飢え死にする者も数多く出た。幕府は時の関東郡代伊奈半左衛門忠順に命じて災害対策にあたらせた。着任した半左衛門は寝食を忘れて焼砂排除の指導にあたったが、工事は困難を極め作業は難工した。さらに食糧の欠乏に悩む被災民の困窮を見かねた半左衛門は、厳しい幕府の掟を破って駿河の幕府御蔵米を開き、餓死寸前の難民に施した。このため半左衛門はお役御免の身となった。しかし、職を賭して荒地の回復と難民の救済に尽くした半左衛門への敬慕の真情は、その後〝御厨の父〟として神に祀り、毎年祭礼を行って今日に至っている。
富士山頂に現れる幻の「コノシロ池」
富士山頂には、夏の一時期だけ現れる「幻のコノシロ池」と呼ばれる池が存在する。この池には想像上の魚コノシロが棲むと言う。実在のコノシロは、鮨ダネなどにされ、ニシン科の海魚。この魚を焼くと人を焼く臭いがすると言い、子のシロ(代)にしたと言う。説話に基づく江戸時代の武士は「この城を食う」と言って食べなかった。物類称呼の説では、胞衣とコノシロを地に埋めると子が成長するというので、子のシロ(代)の意からとみる。
富士山で最初にスキーをしたのは誰?
御当地検定の「こども富士山検定」に『富士山の山頂から初めてスキーをした人は誰?』という大変マニアックな問題が出た。答えはテオドール・ファン・レルヒ。明治の開国により多くの外国人が競って富士登山をしたが、明治44年(1911)4月、オーストリアの軍人であったレルヒは、横浜沖の海上から見た富士山の事が忘れられず、友人クラッツァーと復活祭の休日に登山。コースは御殿場→馬返し→太郎坊→頂上近くまで行ったが、雪と時間不足で登頂をあきらめてスキーで下山。これが富士山で初めてスキーをした記録となっている。
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金剛杖は富士のデフォルメ
富士講の身禄という行者によると、富士山には八角の金剛杖が良いという。この食行身禄という人物、物見遊山で富士山に登る風潮を嘆き、富士山の烏帽子岩で断食の末に死をもって人々の目を覚まそうとした人物。その彼の遺言に「八角の金剛杖を使って登るように」という言葉があったという。富士山には八つの峰と、八百八沢のうち八つの大きな沢がある。実は杖の側面の八角は、これらを表し、杖の頭が丸いのは、富士山のご神体を表すものだという。つまり、富士山の金剛杖は、富士山自身をデフォルメした杖だったのだ。富士講の正しい作法では、登りは杖を使って登るが、下りには、神聖な富士山頂の土の付いた杖の先を半紙で包み、水引で縛り、担いで下りるのが正しい作法とされている。
富士山がふたつに割れる時「大沢崩れ」
富士山の西側には大きく深い谷がある。一日平均10トンダンプ100台分の土砂が流失しているという「大沢崩れ」である。昭和42年(1967)当時の山梨県知事の『富士の大沢崩れが激しく、その姿が変わりつつある。』との発言がきっかけとなり、国会で取り上げられ、建設省(現国交省)の予算が付き、以降40年以上に渡り、大沢崩れの大規模な砂防工事が今も続けられている。富士山頂の火口まであと150m。このまま崩れ続ければやがて富士山はふたつに割れ、八ッ岳や愛鷹山のような姿になるのかもしれない。
富士山のミニチュア版「富士塚」
富士塚は、土を富士山のように盛り上げ、その表面を溶岩で覆った人造のミニ富士山。富士山の信仰集団「富士講」の講者たちが信仰の証として築造した。江戸時代を中心に昭和初期までに東京から神奈川、千葉、埼玉などに相次いで造られた。東京23区内には55の富士塚があったと言われているが、都市化の進展とともにビル建設などで取り壊されたり、削られたりした。江戸時代築造の富士塚の3分の1が姿を消したと言う。東京・練馬区江古田・豊島区椎名町・台東区下谷坂本の三つの富士塚は、国の重要有形民俗文化財に指定されている。
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富士山の雪形「農鳥」
冨士北麓で春の訪れを告げる富士山の残雪の雪形「農鳥(のうとり)」。4月から6月にかけて7合目の北西斜面、標高2600㍍あたりに、鳥の形をして現れる。田植えなどの農作業を始める目安となる事からこう呼ばれている。富士吉田や河口湖町の人たちは、昔から農鳥の現れる時期によってその年の天候や吉凶を占っていた。一月中に現れると凶作になるといわれ、平成15年は一月に現れ、この年は冷夏で凶作だった。
富士川町は静岡県? 山梨県?
富士川町って静岡県?それとも山梨県?。2008年までは静岡県。2010年からは山梨県。県境が移動した訳ではありません。2008年(平成20年)11月1日、静岡県中部にあった富士川町が隣の富士市に編入合併し、その名が消えた。それから1年半後、2010年(平成22年)3月8日、山梨県の南巨摩郡にあった増穂町と鰍沢町が合併して、新しく富士川町が誕生したって訳。全国に富士の名前をつけた市町村が多いが、同じ名前の町が県を越えて移動した珍しいケース。
富士山頂には虎が棲んでいる?
富士山頂の噴火口には、巨大な虎が棲んでいる。むろん、生きた虎ではなく、うずくまる姿に似た形をした石「虎岩」のことだ。これは、九世紀後半、山頂の様子が初めて書かれた都良香の「富士山記」のなかに『石体如蹲虎』と記されている。それから、幾度となく、噴火に見舞われながらも「虎岩」は、どっしりと腰を据えたまま一千年以上の時を過ごしている。それは、まるで、山頂の主のようである。
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富士山の「三湖連絡説」とは?
富士山には、山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖という五つの湖があり、このうち西湖、精進湖、本栖湖の三つは水面の高さがいつも同じことから「地下でつながっているのではないか」といわれています。この説が「三湖連絡説」と呼ばれています。湖の間に穴だらけの溶岩があって、そこを地下水が自由に通ることができるというものです。一つの湖の水を川に流したところ、他の湖の水位も一緒に下がったことがあります。しかし、断言できほどの証拠はまだありません。そもそも富士五湖は富士山が噴火を繰り返すたびに形を変えながら、今の形になったと言われています。三湖も昔は一つの湖でした。それが4500年前から始まった噴火で本栖湖が分かれ、西暦864年の噴火(貞観大噴火)で精進湖と西湖も分かれたと考えられています。
2月23日「富士山の日」が国民の休日に?
2011年11月に山梨県は2月23日を「富士山の日」とする県条例を制定。これを最初に宣言したのは、地元ではなく、山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)で、1996年(平成4)1月1日に制定。当時、新聞やテレビでも報道され2000年には日本記念協会に申請、登録承認されている。その後2001年(平成13)12月になって、山梨県の富士河口湖町でも「富士山の日」条例を制定。続いて2009年(平成21)12月には、静岡県が県条例で制定をした。ふ(2)じ(2)さん(3)(富士山)の語呂合わせとこの時期、大気が澄んで富士山がよく望めることからこの日が選ばれた理由。しかし、この日は、皇太子徳仁親王の誕生日(1960年2月23日)に当たりますので、「富士山の日」がやがて「天皇誕生日」として国民の祝日になる日が来ることでしょう。
『富士山噴火』と『貞観大津波』の関係
2011年に起きた東日本大震災の報道の中で、度々『千年に一度の地震』とか「貞観大津波」という言葉が聞かれました。『貞観大津波』とは、平安時代の史書「日本三代実録」という書物の中に、平安時代の貞観11年(869)7月13日に陸奥の国で大きな地震と津波があったと書かれています。『民は叫び、倒れ伏し、海はほえ、船に乗るいとまなく、山に登るも及びがたし、千人が溺死した。』とあり、その規模はM8・3~8・6と推定されています。九世紀は「天地動乱の時代」と呼ばれ、同じ貞観6年(864)には、富士山が噴火し、現在の青木ヶ原溶岩台地が完成しました。同9年(867)には阿蘇山も噴火しています。また、富士山の三大噴火の一つ「宝永大噴火」は、宝永4年(1707)10月4日に起きた推定M8.6~8.7の東海・東南海の連動型地震の49日後に起こっています。富士山の噴火と大地震の連動するパターンには、①富士山噴火の後に大地震を誘発するケース。②大地震の後に富士山の噴火が始まるケース。③地震によりかえって富士山の噴火がおさまる。という3つがあると言われています。
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地球温暖化で富士山の雪は増える???
2012年の冬は、日本海側で連日大雪のニュースが流れ、大変厳しい寒さが日本列島を襲いました。ところが太平洋側では連日「冬晴れ」が続き、富士山の雪も記録的に積雪が少ない状態が続きました。富士山の雪は、日本海側で降る雪とはメカニズムが違っていて、北からのオホーツク低気圧が弱まり、日本の南岸を太平洋低気圧が発達しながら進んで天気を崩す時に富士山に雪を降らします。この南岸低気圧は、西高東低の冬型の気圧配置が緩んだ時に発生します。つまり比較的暖かな冬や「地球温暖化で、富士山の雪は増える」という現象が起きるのです。
助六は曽我兄弟の仇討ちの弟・五郎だった?
歌舞伎十八番のひとつ「助六由縁江戸桜」の主人公・花川戸助六は、吉原では評判の喧嘩っぱやい伊達男です。助六が毎晩のように吉原で喧嘩を繰り返すのには、実は理由がありました。江戸の町人に身をやつした助六は、実は親の仇討ちを心に秘めた武士・曽我の五郎です。仇討ちに必要な家宝の友切丸(ともきりまる)を見つけ出そうと、相手に刀を抜かせるため、喧嘩を繰り返していたのです。吉原一番のおいらんであった揚巻(あげまき)にぞっこんの髯の意休がその刀を持っていることを突き止め、揚巻と助六は協力して家宝を奪い返し、いざ仇討ちへと向かうというのが話の筋です。
富士山麓に伝わる幻の宮下古文書とは?
宮下古文書とは、富士吉田の小室浅間神社の神主宮下家に伝わった古文書群の総称です。それによると、4600年ほど昔、中国の古代王国から派遣された王子が、今の富士吉田付近に家基都(かきつ)という都を築き、日本全土を支配したと言う。家基都周辺の高原地帯を高天原と呼びましたがやがて子孫が九州の高千穂へ首都を移し、さらに奈良に移って大和朝廷を開いた。この各時代に残した断片的な記録の集大成が宮下古文書です。初期の記録は漢字伝来前に日本で使われていた象形文字「神代文字」で書かれていた。それを2200年前に徐福が漢字に翻訳し、書き写したと言われています。
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青木ヶ原樹海は明治天皇から戴いた森だった
明治の中頃、山梨県は度々大きな台風や集中豪雨により甚大な被害を被りました。たび重なる災害に対し明治天皇は山梨県下の御料地を復興に役立てるようにと山梨県に御下賜戴きました。それから100年。平成23年3月11日が「恩賜林御下賜百周年」でした。山梨県の各地ではその記念行事が予定されていましたが、その日の午後2時46分「東日本大震災」が発生しました。昔の御料地だった青木ヶ原樹海を地元では今も「恩賜林」と呼んでいます。
富士のついた言葉集め
●富士額/髪の生え際の形が富士に似ている●富士眉/眉の両端が下がっている●富士見酒/摂津の国で醸造された酒。富士が見える所まで船で運ばれたのち、出荷された●富士編笠/富士山の形に似た大笠。武士が用いた●富士南/関東地方で西南より吹く風●富士灰/富士山の形に火鉢の灰を盛ること。また富士の火山灰も指す●富士見窓/主に茶室で富士の方向にあけた窓●富士釜/茶の湯釜。口が小さく裾が長い●富士茄子/茄子形の唐物茶入れ。堂々とした大振りの姿が、富士の威容を思わせるとしてついた●富士見西行/画題。西行法師が富士を眺めている、その後姿の図●富士は磯/比較にならないほど優れているさまをいう。その物事に比べたら高い富士も低い磯も同じこと●富士ほどに願うて擂り鉢ほど叶う/なかなか願いや望みが達せられないこと●富士の煙/いつまでもくすぶり続ける恋心をたとえていう●富士を見せる/上方から子弟を修業のため江戸に出すこと。
富士山と山麓の地名の由来
●精進湖/修験道の祖といわれる役小角が、富士登山の折に、通った道にあたるという。そのため、後世、登山する人々が、この湖で沐浴し、精進潔斎をしたところから、この名がついた。●鳴沢/鳴沙、成沢ともいわれた。沢崩れのことをいったもので、富士北麓の鳴沢村は、大沢の崩落する岩の音が、遠雷のように聞こえたという由来がある。●須走/語源は「砂走り」。噴火で起こる偏西風が運んだ砂礫が積もり、砂場状であるため、下山者は自然と勢いがつき、五合目ぐらいまで一気に走り下りることができたので、こう呼ばれた。●富士宮/富士登山南口にあたる地で、旧名を大宮といった。大きな神社(浅間大社)かあったためだが、富士山を祀る最も古い神社ということから、富士の大宮とも呼ばれていた。●宝永山/江戸時代の宝永四年(1707)、中腹から大爆発を起こした富士山の、その火口下から現れた小山が宝永山である。当時、人々は山が増えたと、赤茶けた小山をありがたがり「もうけ山」と呼んだ。実体は噴火により古冨士の一部が露出したものという。
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富士山登頂証明書の発行サービス
やまなし観光推進機構は、富士山の登頂者を対象に「富士山登頂証明書」と、訪れた人向けの「富士山登山記念状」を発行するサービスを行っている。2種類とも、専用のウェブサイト『ノボルノボル富士山』 http://www.fujisan3776.com のサイト上で名前と登頂日、登頂を証明する写真を入力すると、約1~2週間でA4判カラー印刷の証明書が届く。1通千円(送料別)。支払いは代金引き換えか振り込み。登山記念状の発行は無料。サイト上で名前や登山日、写真を入力し、完成した記念状データをダウンロードする。「フェイスブック」や「ツイッター」などに記念状を投稿することもできる。
海抜0メートルから登る富士登山
富士山の五合目まで車で行ける登山道は現在4つ。山梨県側の「吉田口・河口湖口」。静岡県側の「富士宮口」「須走口」「御殿場口」です。それに次ぐ5つ目の登山道としては、富士五湖の一つ、精進湖からスタートする「精進口登山道」があります。この登山道は青木ヶ原樹海の森の中を歩く快適な登山道としてマニアの人達の間で密かな人気のコースです。その5つの登山道を全て制覇した人が次に目指すのが、新幹線の新富士駅から南にある「田子の浦」からスタートするコース。何故、田子の浦からスタートするかお判りでしょうか?海からスタートする理由は、海抜0メートルから富士山の3776メートルを登るためです。この3776メートルの標高差を登ると、エベレスト登頂より標高差が稼げるという事です。田子の浦からは富士山の端整な全景を眺めることができます。朝そこをスタートして、富士宮市の富士浅間神社に参拝。冨士スカイラインを通り、一日目は富士宮口五合目に宿泊。翌朝、富士宮口登山道から山頂を目指します。体調や天候にもよりますが、行程約50㎞。16~19時間程かかることになります。
日本一高い結婚式場は、どこ?
日本一高い結婚式場で式を挙げると幾らかかる? 【答え】10万円。何の話かって、日本一高い場所にある富士山の山頂にある神社『富士山本宮浅間大社』で挙げる結婚式の話。日本一の標高を誇る富士山の山頂に神社がある事は良く知られています。神社があれば結婚式を挙げられるのではないか? 7月15日から8月15日の間、1ヶ月間だけ、山頂の「富士山本宮浅間大社」で本当に挙式を受け付けています。申し込みは、富士宮市の同神社に事前に電話で仮予約の上、社務所に出向き、申し込み用紙に必要事項を記入。挙式料10万円を添えて正式の申し込みとなる。挙式のみを行い、衣装は自分で頂上まで運ぶ訳だが、勿論、登山服のままでも構わない。頂上の社殿は狭いので10人くらいしか参列できないので注意。毎年、2~3組の結婚式が行われている。日本一高い富士山頂で誓う愛は、その深さも日本一!本人たちは勿論、招待された参列者もそれなりの覚悟がいる。※詳しくは、0544-27-2002(社務所まで)
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結婚式費用日本一だった山梨流ハデ婚?
多くの招待客を集めて盛大に祝う、派手な結婚式といえば愛知県というイメージあるが、山梨県も負けていません。少し古いデータですが平成17年に経済産業省が行った「特定サービス産業実態調査」によると、結婚式と披露宴の平均費用が最も高い都道府県は山梨県の372万円で、結婚式・披露宴が派手と評判の愛知県(10位、290万円)を上回っていた。招待客数では100人以上が約6割で、首都圏の中で一番割合が高かった。結婚式費用日本一の座は、最近、東海・北陸地方に、結婚の総費用では、茨城・栃木・群馬にトップの座を奪われてしまったらしい。
日本三大奇祭。吉田の火祭り
富士山の山じまいの行事として、富士北麓地域の短い夏の終わりを告げる「吉田の火祭り」は、毎年8月26・27の両日、富士吉田市内で行われます。浅間神社の祭神、木花開耶姫が、猛火の中で皇子を安産したという故事に由来すると言われ、沿道2キロに渡って立てられた80本以上の大松明(たいまつ)と、各氏子宅前に井桁に積まれた松明に一斉に火が付けられ、炎が夏の夜空を焦がし、溢れる人の波で深夜まで賑わいます。この祭りは「日本三大奇祭」のひとつと地元では言われていますが、後の二つがはっきりしません。そこでインターネットで調べてみると『インターネット版・日本三大奇祭』というサイトがありました。それによると第1位、吉田の火祭り48票。2位、島田の帯祭り47票。3位、諏訪の御柱祭。とあり、続いて、西大寺のはだか祭り。普光寺の裸押合祭り。国府宮のはだか祭。とありました。
ジョン・レノンが泊まったホテル
戦争のため幻に終わった昭和15年(1940)の東京オリンピック。このイベントに向けて、外国人用のホテルとして山梨県が富士屋ホテルにその経営を委託して、昭和11年(1936)に創設されたのが、河口湖畔に建つ『富士ビューホテル』である。昭和13年(1938)ドイツヒトラーユーゲントが青少年相互訪問の一環として来日。このホテルに宿泊している。その後、ドイツ大使館が借り上げ使用していたが、終戦(1945)により、連合軍専用のレスト・ホテルとして接収された。昭和33年(1948)より一般営業が再開され、昭和53年(1978)ジョン・レノン・オノヨーコ夫妻が宿泊している。その後、昭和60年(1985)に改築。昭和61年(1986)には昭和天皇も宿泊されるなど、華やかな歴史と伝統を持つ、異国の雰囲気を持つ、富士北麓を代表するホテルです。
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漫画のサザエさん一家の河口湖観光
テレビアニメ『サザエさん』のオープニングでは、季節ごとに日本の観光地を紹介している。平成14年の10月から三か月間の放送分では、サザエさん一家が河口湖や山梨のぶどうの丘を観光し、天下茶屋でほうとう鍋を食べた。ちなみにサザエさん一家に観光して貰うお値段は、約700万円だそうです。
富士山は昔、アサマ山だった?
山岳名称を考える場合、その山の神を祭る神社の存在が大きな役割を演ずる場合がある。赤城山と赤城神社、榛名山と榛名神社、磐梯山と石梯神社などの例がある。ではフジ山ではどうか?そこで、木花開耶姫を祭る浅間神社の存在が重要になってくる。ひょっとすると「アサマ」こそフジ山の本当の名前で、元々は、フジ山ではなくアサマ山だったのではなかろうか?寺田寅彦や小暮理太郎をはじめ、フジはアサマだったのではないか、と言っている人は沢山いる。
富士山は、女人禁制の山だった?
富士山は明治に入るまで、女人禁制の山でした。深山で修行する「修験道行者」にとって、女性に対する愛欲は、修業の最も妨げだったからです。そんな修験者の都合だけで成立した「女人禁制」は、いつの間にか「女性は生まれながらに、穢れと罪のために神仏に近寄ってはいけない」などと解釈されるようになってしまい、長い間、富士山も他の信仰の山と同じく「女人禁制」となっていました。ところが、富士山を信仰する「富士講」の元祖・食行身禄は、この「女人禁制」に対して反対の立場で、男女平等を説き、その後、この思想は江戸時代の不二行者・小谷三志へと受け継がれていきました。
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「金に糸目をつけない」「太鼓判を押す」とは
甲州金による日本初の貨幣制度を創ったのは武田信玄で、その際に一両を4分=16朱=64糸目。と決めた。そこから『金に糸目はつけない』という慣用句が生まれたと言う。又、『太鼓判を押す』という慣用句も、甲州で作られた一分金の「太鼓判」が影響しているという。この一分金は、丸型で周りに小さな丸印が装飾され、太鼓の皮留めに似ていることから「太鼓判」と呼ばれ、甲州金は品質が良く、絶対に確実で保証するという意味に使われたという。『金に糸目はつけない』については、糸目とは揚げた凧のバランスを取るために表面に付ける数本の糸のことで、この糸目のない凧は制御できない為、風にまかせて飛んで行ってしまう。そんな糸目をつけない凧に掛けて、制限なく金を使う事という別の説もある。
日本で一番、活火山の多い都道府県はどこ?
気象庁と火山噴火予知連絡会では、日本の活火山を110と認定している。その内の21ケ所の活火山を持つ、日本一活火山の多い都道府県はどこでしょうか?「温泉が多いから九州辺り」「面積が大きいから北海道かな」「やはり富士山のある山梨県か静岡県かな」【答え】全国1108の内21か所で全国一は、東京都でした。続いて北海道の18。我が山梨県は、富士山の一つだけで全国最下位でした。ちなみに東京都の21か所の活火山とは「伊豆大島」「利島」「新島」「神津島」「三宅島」「御蔵島」「八丈島」「青ヶ島」「ベヨネース列岩」「須美寿島」「伊豆鳥島」「嬬婦岩」「西之島」「海形海山」「海徳海山」「噴火浅根」「硫黄島」「北福徳堆」「福徳岡ノ場」「南日吉海山」「日光海山」。
日本で一番、水道料金の安い町「富士河口湖町」
富士河口湖町の水道料金は「日本一水道料金の安い町」としてトップの座を守ってきた。全国の市町村の水道料金には、上流のダムの建設費やその維持費が含まれている。ところが富士山麓の富士河口湖町では、富士山の伏流水を汲み上げることにより、ダムの負担金を払わなくても良かった。しかし、町は老朽管の敷設替えや耐震化の費用を確保するため、2013年の4月から値上げを検討している。2012年4月時点で、2位は兵庫県赤穂市、3位は静岡県小山町、4位は静岡県沼津市だった。値上げが決定すれば、富士河口湖町の水道料金は、全国3位の安さということになる。
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富士山に登った人々 その1(伝説編)
富士山に登った人物として、伝説上の古い順に挙げれば、まず紀元前200年ころに秦の始皇帝の命を受けて日本に渡ってきた「徐福」という人物の名が挙がる。中国全土を初めて統一した秦の始皇帝が、統一の後に願ったことは「不老不死」。東海の果てに不老不死の仙人が住むという話に2000人の家臣を派遣して、富士山に至ったと記録されている。次は飛鳥時代「聖徳太子」25歳の時、甲斐の国から献上された黒駒に乗って、雲上を駈け、一気に冨士山頂に至ったと伝えられる。飛鳥時代から奈良時代になると我が国修験者の開祖「役の行者」が伊豆の大島に流された時、夜な夜な島を抜け出し、海上を飛んで富士山頂で修行したとも伝えられている。平安時代に入って「かぐや姫」が月へ帰った後、帝の家臣が富士山頂で姫の手紙と不老長寿の薬を焼いたとされる。ここまでは伝説として伝わっているが、実際に富士山頂に成功した人物がいた記録は、平安時代の文学博士・都良香(みやこのよしか)の「富士山記」という書物の中に富士山頂に平なる場所があり、なべ底のように凹んでいること、虎の形の岩があることなど、実際の登った者からの伝聞としか思えない記録がある。登頂はしなかったが、神話の時代「日本武尊」が東夷を平定しての帰り道、道を甲斐国にとり、吉田の地で富士山を拝したという。
富士山に登った人々 その2(歴史上の人物編)
歴史上、富士山に登ったとされる人物には、空海(弘法大師・807年)が「甲州側より登り、石仏を勧進した」という。都良香(870年)は「富士山記」の中で山頂に沸湯池があると記述の伝聞があり、末代(1149年頃)は「奥宮の山頂に大日寺を建立」とあります。親鸞上人(1228年)は「甲州側より登った」という。日蓮上人(1229年)は「吉田口より登り、経が岳に妙経を埋めた」という。藤原角行(1600年頃)は「合計128回登り、富士講を開く」という。高山たつ(1932年)は「女性で最初の登山者」となり、ラザフォード・オールコック(1860年)は「西欧人初の登山者・英国初代公使」で、パークス夫人(1867年)は「西欧人の女性初の登山者・英国公使夫人」となる。ウォルター・ウェストン(1890年)は「日本アルプス開拓の父といわれる英国人」で、ラフカディオ・カーン(1898年)は「小泉八雲の名で知られる米国人」。テオドール・フォン・レルヒ(1912年)は「日本スキーの父といわれるオーストリア人・山頂よりスキーで滑降」などがある。
富士山に登った人々 その3(芸能人などの有名人編)
『日本一の富士山』は、日本一有名人が登る山でもあります。2008年に当社の「プライベート富士登山」で、タレントの水道橋博士が、当時5才の息子さんと一緒に富士登山に参加頂きました。又、2010年タレントのスザンヌや2011年にモデルの押切もえさんと当社の「レディースコース」のお客さまが一緒の山小屋になったなどの話もありました。過去に富士山に登った有名人をご紹介いたします。
【皇室】昭和天皇・浩宮殿下【俳優】石原裕次郎・勝新太郎・山崎勉・森繁久弥・山内賢・小野寺昭・岩城滉一・上川隆也・竹脇無我・伊吹吾郎・保坂尚希・赤井英和・木之元亮・松村雄基・石原良純【女優】和泉雅子・市毛良江・南野陽子・観月ありさ・川上麻衣子・紺野美沙子・小島 聖【タレント】中居正広・草彅剛・木村拓哉・酒井法子・三宅健・長原成樹・パンチ佐藤・ゴルゴ松本・マイケル富岡・ほっしゃん・マイケル・たむらけんじ・磯野貴理・福島和可菜・宇治原史規・劇団ひとり・勝俣州和・小川麻琴・田中律子・ロバート・内村光良・ルー大柴・スザンヌ・はなわ・ガリガリクン・パトリック・ハーラン・中山秀征・飯島直子【スポーツ選手】三浦雄一郎・豊野智広・土野武士・セバスチァン・ベッテル・アレクサンダー・ブルツ・伊東輝悦・岡崎朋美・高田延彦・大仁田厚・大林素子・谷亮子・フィリップ・トルシエ・ボビー・バレンタイン・古田敦也・増田明美・陣内貴美子・杉山愛・徳山昌守・西本聖・萩原次晴・池谷幸雄・【その他】新田次郎・風間深志・春風亭柳昇・矢部浩之・宮川大助・ガレッジ・セール・ハイヒール・モモコ・トータルテンボス・西野亮廣・木村卓寛・なぎら武・服部良一・羽田健太郎・堺正章・布施明・橋幸夫・三浦大知・川村カオリ・ソニン・東山紀之・hyde・ken・藤井フミヤ・ゴスペラーズ・すがはらやすのり・CHARCOAL FILTER・鬼龍院翔・新藤晴一・當山奈央・DAIGO・川嶋あい・亀梨和也・田中聖・上田竜也・KOKIA・ピエール瀧・ショーン・レノン・山下達郎・森一弥・大島優子・秋元才加・指原莉乃・北原里英・髙木亜樹・宮崎美穂・福留功男・福澤朗・松丸友紀・赤江珠緒・平井信行・依田司・亀淵昭信・若林史江・茅原実里・ガチャピン・松本しのぶ・山王丸和恵・新垣里沙【途中までで断念】ドロンズ・極楽とんぼ・小泉今日子・貴水博之・石塚英彦・宮川花子・虻川美穂子・伊藤さおり・桂三枝・チャダ・香取真吾・山崎弘也・萬田久子
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富士山をめぐる伝説 その1 かぐや姫は天女だった
竹から生まれたかぐや姫は、最後は月に帰っていきますが、富士市に伝わる「かぐや姫」は、月ではなく、富士山に帰っていきます。駿河の国、富士郡・姫名郷の物語。美しく成長したかぐや姫に国司が求愛し、やがて一緒に暮らすように。しかし、数年後、かぐや姫は自分が仙女であることを打ち明け、不老不死の薬が入った玉手箱を残して富士山に帰ってしまいました。国司は悲しみ、姫の後を追って登りました。富士山頂には大きな池があり、その奥の美しい宮殿から現れた姫の姿はもはや人間ではなく、天女の姿で、国司は悲しみのあまり姫の残した箱を抱えて池に身を投げてしまいました。
※富士市には伝説にちなんだ地名が通称として残っているとか。翁と媼が棲んでいた「竹採屋敷」、翁が竹籠を編んでいた「籠畑」、翁と媼がかぐや姫を迎えた「竹採塚」、かぐや姫が帰る時に通った「囲いの道」、分かれを惜しんで振り返った「見返し坂」などのほか、「かぐや姫」という地名も。
富士山をめぐる伝説 その2 富士と八ヶ岳の背比べ
昔々、富士山の女神・浅間様と八ヶ岳の男神・権現様はどちらが背が高いか競い合いました。しかしお互いに譲らないので、木曽の御嶽山の阿弥陀様にお願いして決めてもらうことにしました。そこで阿弥陀様は「二つの山のてっぺんに長い樋を渡し水を流せば、水は高い方から低い方へ流れるはず」と考え、樋を渡し水を流しました。水は富士山の方へ流れて負けとなりました。しかし気の強い浅間様は自分の負けを認めず、八ヶ岳のてっぺんを大きな棒でたたきました。八ヶ岳の頭は八つに割れてしまったので、今も八つ頭があるそうです。この日から富士山は日本一の山になりました。
※南北に約30㎞に渡り峰を連ねる八ヶ岳は、山梨県と長野県にまたがる山塊の総称。中で最も高いのが赤岳2899mです。蓼科山は八ヶ岳の妹で、八つの峰になった八ヶ岳を見て泣いて、その涙が川になり溜まったのが諏訪湖だとか。
富士山をめぐる伝説 その3 富士が晴れれば雲見が曇る
伊豆の雲見の浅間神社の祭神・磐長姫(イワナガヒメ)は、富士山の祭神・木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)の姉にあたります。瓊瓊杵尊(ニニギノミコト/天照大神の孫)は旅の途中でしまいに出会い、木花開耶姫を妃としました。磐長姫は疎んじられたことを悲しみ雲見に隠れ住みました。そして仲良しだった姉妹も互いに憎み合うようになってしまいました。“雲見が晴れれば冨士が曇る。冨士が晴れれば雲見が曇る。”といわれ、雲見の浅間神社では冨士を褒めるとたたりがあって高い崖から海に落とされるとか。また里人は富士登山をしなかったり「富士」という言葉は禁句だったそうです。
※伊豆半島の松崎まち雲見にまるで海中に烏帽子を置いたように聳えている三角形の岩山が標高163mの烏帽子山。その山頂に雲見浅間神社があり、豊漁航海安全の神様として信仰され、漁師が沖を通る時は鉢巻を取り、カツオ漁船はカツオの心臓を供えたといいます。
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富士山をめぐる伝説 その4 ダイダラボッチの伝説
ダイダラボッチの伝承には、ダイナミックなものが多いようです。富士山を作るため、甲州(山梨県)の土をとって土盛りしたので、甲州はすり鉢状の盆地になった。近江(滋賀県)の土で富士山を作り、その跡が琵琶湖になった。富士山の姉だった浅間山が、自分より背の高い妹に嫉妬し、土を分けろと言いました。富士山は了解し、ダイダラボッチが前掛けを使って土を運びました。しかし浅間山は土が少ないとダイダラボッチをたたき、その際こぼれた土が前掛山になりました。やがて浅間山は怒りだし、ついに噴火してしまったそうです。静岡市西部にある「だいらぼう」山頂には全長150mほどの窪みがあり、ダイダラボッチが左足を置いた後と伝えられています。
※ダイダボッチは身長数百mの大男で、富士山に腰掛けて駿河湾で手を洗うぐらい。食べたハマグリの殻で丘ができるほどの食欲。足跡は長さ約60m、幅40m。もともとは国造りの神様だとか。「大人」を意味する「大太郎」に法師を付けて「大太郎法師」のことで、一寸法師の反対の意味とか。
富士山をめぐる伝説 その5 秦の始皇帝と徐福伝説
紀元前219年、不老不死の仙薬を求めて中国大陸から日本に旅立った一団総勢3000人。それを先導したのが、秦の始皇帝から命を受けた「徐福」だと、司馬遷の「史記」に取り上げられているそうです。徐福が日本に渡り各地を尋ねるうちにたどり着いたのが大陸に伝わる東海中の蓬莱山(仙人が棲むといわれる山)といわれる富士山のふもと。結局、不老不死の仙薬を見つけることができず、徐福はここに永住することを決意し、国に還ることはありませんでした。始皇帝は死ぬ間際まで、徐福の帰りを待ちわびたそうです。
※300年ほど前、富士吉田市下吉田の福源寺に一羽の鶴の死骸が発見されました。これは2000年前、富士山のふもとで養蚕や機織りの技術を人びとに伝えて生涯を終えた後、鶴と化した徐福の化身であるとされ祀られました。今もこの「鶴塚」が残されています。日本全国には徐福伝説が数多くあります。
富士山が15㎝低くなったというお話
富士山が2014年から15㎝低くなった。国土地理院によると、これまでは基準となる三角点との距離や角度を元に標高を測る三角測量で計測していたが、2014年度の調査ではより正確に計測できる衛星測位システムを使い、再調査した。その結果、今までは前回調査の大正15年(1926)の数値3776.27mだったが、今回、3776.12mになった。国土地理院では標高をメートル単位で表記すると定めており、小数点一位を四捨五入して3776mであることに変わりはなく、2位の北岳はこれまでより34㎝高くなり3193.32m。今まで4位だった間ノ岳が3189.13mから3189.50mとなり、四捨五入で表記上の標高はこれまでより1m高い3190mと従来3位の奥穂高岳(長野県・岐阜県)と並び、同一3位となった。奥穂高岳は三角点がなくセンチ単位では比較できないという。これで山梨県は、富士山を筆頭に金銀銅を独占することになった。
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青木ヶ原樹海の誕生の報告書
青木ヶ原樹海の誕生の報告書が、平安時代の「三代実録」という書物に残されている。そこには次のような記述がある。その年は、貞観6年(864)7月17日。『甲斐の国からの報告によれば、駿河の国の富士大山が突然噴火し、岡や山が焼け砕け、草木は焼け焦げ、土や溶岩が流れて来て、八代郡本栖と?の海の西湖を埋めてしまい、水は熱して湯のようになり、魚やスッポン(水中の生物)皆死に、百姓の居宅は海もろ共埋まってしまい、また、家があっても人影は無く、其の数は記し難し。西湖の東側に海があり、名は河口の海と云う。火焔は河口の海に向って走っていた。本栖や?の海がまだ焼けたり埋まる前の状況は、地面が大きく震動し、雷やイナヅマがして暴雨が降り、雲や霧がかかって真暗で、山にも野原にもその区別がつかず、その後、このような思いがけない災いがあったのである。』※「三代実録」とは、清和天皇の天安2年(858)より、陽成天皇、光孝天皇の仁和3年に至るまでの三代の天皇の時代30年間の事がらを記した書物のこと。
「風林火山」には続きがあった
武田信玄の軍旗として有名な「風林火山」には続きがあった。これは、中国春秋時代の呉の将軍・孫武が書いた兵法書「孫子」の軍争編の一説を引用したもので『其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山』までが『風林火山』で、続きが『難知如陰 動如雷震 掠郷分衆 廓地分利 縣権而動 先知迂直之計者勝 此軍争之法也』となる。その意味は、『疾風のよう早いかと思えば、林のように静まりかえる。燃える炎のように攻撃するかと思えば、山のように動かない。』後半部分が『暗闇に隠れたかと思えば、雷のように現れる。兵士を分散して村を襲い、守りを固めて領地を増やし、的確な状況判断のもとに行動する。敵より先に「迂直の計」を使えば勝つ。これが勝利の法則だ。』大体こんな感じらしい。村を襲い掠奪する際は、兵を分散して掠奪する方が効率だと言っている訳。あまりに生々しいので前半のきれいごとの部分だけを旗印にしたのかもしれない。また、風林火山が現代の創作で、井上靖の歴史小説「風林火山」が最初だった。「迂直の計」とは、「迂」=曲がりくねったり、「直」=まっすぐ行ったり・・・わざと遠回りをして油断させておいて電撃的に畳み掛ける。
江戸時代にもあった富士山入山料
2013年、富士山世界遺産登録から始まった「富士山保全協力金」という名目の入山料。現在は任意という形で一人1,000円を徴収されているが、富士山では、富士講の盛んな江戸時代からすでに入山料が存在していた。川口御師の古文書によると、富士山の山役銭は122文。当時の一文は、現在の25円の換算で3,050円程になるそうです。世界各国の入山料を調べてみると①エベレストが1パーティー700万円。ネパール側で250万円。チベット側で100万円。②アコンガグア(アルゼンチン)10万円。③マッキンリー(米アラスカ)21.000円。④キリマンジェロ(タンザニア)7.000円。1ドル100円の計算ですべて一人参加の場合。(2013年アドヘンチァーガイドの調べ)
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富士スバルラインは2014年で50周年
山梨県側の「富士スバルライン」は、昭和39年(1964)4月2日に「夢のハイウェイ」として開通してから2014年に、開通から50周年を迎えた。富士スバルラインの愛称は、全国公募による16万通の応募の中から決定された。「スバル(昴)」は別名「六連星(むつらぼし)」と呼ばれる星団の名前。おうし座に属するプレアデス星団の名前でも知られている。ちなみにスバル自動車の富士重工業は6社で合併したことにちなんで、1958年に「スバル」を商標として採用した。
清水次郎長が富士山麓を開墾した
浪曲・講談・映画のヒーローとして有名な清水の次郎長は、明治維新に際し、それまでの凶状持ちから駿府の道路探索方に任命され、1874年(明治7)から富士山南麓の富士市大淵の荒れ地の開墾事業を始める。資金は静岡県が出し、それまでの博徒時代の子分のほか数十人の囚人も使っている。水のない不毛の火山灰地の開拓事業は難航し、養子・天田五郎が途中から監督を務めるようになる。次郎長自身が84年(明治17)に全国的に行われた博徒刈込で囚われ下獄する。山岡鉄舟や大迫貞清(静岡県令)の奔走があって2年余りで仮出獄するが、せっかくの開墾地は荒れ果て、もとの原野に戻っていたようである。しかし89年(明治22)の市制・町村制施行に伴って山梨県や静岡県安倍郡からの入植が始まり、しだいに開墾が進んでいったという。ここ白髭神社に「次郎長町」の基礎を築いた偉人として顕彰してある。この辺りはいまでも植木と茶畑が中心である。土が痩せた火山灰地であることに変わりはない。
富士山さえなければ・・・???
古来、和歌や絵画の題材となり、愛されてきた富士山だが、富士の北麓に住む人々にとってはかって、陽差しを遮る〝邪魔者〟という負のとらえ方もあった。戦後、富士山麓で暮らした民俗学者の伊藤堅吉は著書「富士山麓 卿愁の民俗」で、「こんな高嶺があるために気温も低く、耕地は狭く・・・富士さえなかったら、おらが郷土も、東海道筋のように、豊穣肥沃な大地であったろうに」という住民の意識を取り上げた。富士山をたたえるのは、神職かオデエジン(分限者)の「酔狂きわまるたわけごと」だったと伊藤は述べている。富士山は美しさをめでる対象であるとともに、厳しさの象徴でもあった。
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富士山は富士にとっては「不死身」だった
東京には富士見の地名がたくさんあります。山手線内に18、山手線外23区内には5つ、合計23の富士見坂があります。富士山のお膝元の山梨県や静岡県よりはるかに多く存在しています。これについてユニークな仮説がある。「徳川家康が江戸に幕府を開いたのは、富士山が見える処だからというのです。確かに江戸城には富士見櫓もあります。では家康は何故、富士山が見える処にこだわったのでしょうか。それは「富士見」が「不死身」につうじるからというのです。言葉遊びのように思えますが、武士にとって不死身は理想だからです。」(足利健亮・地図から読む歴史・講談社学術文庫)
松本清張「波の塔」にはモデルになる事件があった
樹海が自殺の名所として全国的に有名になったのは、1959年に発表された松本清張の長編小説「波の塔」が最初で、清張のオリジナルと思われていたが、実は、1928年(昭和3年)にそのモデルと思われる事件があった。旧制高校教授で、気鋭の学者・北川三郎がカフェの女給・よね子と樹海で心中するという当時の新聞を賑わす「青木ケ原心中」があった。事件後、観光バスのガイドが「青葉の夢に誘われて、行くは涙の精進湖よ」というはなはだ通俗的な歌詞の「青木ケ原心中」の歌まじりに「清らかな愛」によって天国で結ばれた二人の心中行を紹介するようになった。そのためもあってか、これ以後樹海で自殺したり、心中したりする若者が現れるようになり、北川とよね子は、その第一号として記憶されるようになった。(朝日新聞社刊「その前夜、樹海に死す」)
「婆んばぁ穴」異聞
富士宮市の奇石博物館の上あたりに「婆んばぁ穴」と呼ばれる火山洞窟がある。この辺りは江戸時代の開墾地で非常に貧しかった。また明治以前はいわゆる「四脚」は食べられなかった。ところがこのあたりの人は「四脚」を食べないと生きていけなかった。でもお役人に見つかったら大変と、食べた跡の骨をこの穴に捨てて隠していた。ところがある時、一人の若者が、婆さんを食わせることが出来ず、この穴に捨ててしまった。村人は急に一人になった若者を訝しがり「婆さんを何処へやった」と問い詰めた。そしたら「あの穴に捨てた」という。そこで村人は「これは大変」と穴に集まった。皆の衆は鶏を籠に入れ「婆さんが生きていれば鶏が鳴くだろう」と穴の下に下ろした。しかし鶏は鳴かなかった。村人は「こんなことがばれたら村の恥だ」と、穴に大量の土を入れ、これまでの動物の骨ともども隠してしまった。この伝説を確かめるため、当時の10チャンネルの「水曜スペシャル」が穴の底を掘った。獣の骨が大量にでた。さらにその前に伝説通り、鶏の籠が出てきた。郷土史家や警察も駆けつけ、大捜査の結果、結局、人骨は見つからなかった。(火山洞窟学会・立原弘会長談)
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富士山頂が機銃掃射された
太平洋戦争当時の昭和20年7月30日、アメリカ軍の本土攻撃の際、富士山頂の山小屋・銀明館主の渡辺栄一氏の証言によると、米軍機が編隊を組んで飛んで行くのが手に取るように見えたという。その日の昼前、戦闘機が二機、はぐれたようにして山頂すれすれを飛んできたかと思うと、機銃掃射して去った。掃射は二、三回だけで、建物にも人にも大きな被害はなかったという。(寺林峻著・富士に生きる~17人の男たち~)
松竹映画のタイトルロゴ・富士山
松竹映画は2015年、創立120周年を迎えた。そこで富士山をバックにしたお馴染みのタイトルロゴを新しくなった。富士山の「松竹マーク」は1936年から形や文字などを変えながら、80年近くにわたって親しまれてきたが、これまでは本物の富士山ではなく、撮影所内で作られたセットを撮影したものだった。風呂屋のペンキ絵のようにどこか正体不明の富士山だったが、2016年からは実写版のリアルな富士山になった。
不治(富士)の病
毎年、富士登山のシーズン中、富士宮の富士山五合目で会う實川欣伸(71歳)さんが、2014年7月に1.673回の富士登山日本記録を樹立した。御殿場の伝説の強力・梶房吉の登山記録1.672回を抜いた。1985年(当時42歳)から29年かけて達成した記録である。2015年は2.000回を達成した。最終目標は2.230回(フジサン)。もう一人の先輩、佐々木さんは、一日に二度登る無茶はしないので、實川さんの抜かれてしまった。他にも富士宮口では毎日登る中高年の何人かに出会う。毎日富士山に登りだしたら、死ぬまでやめられない。まさに病気である。彼らの罹った病気を「不治(富士)の病」というらしい。
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スキーの発祥は富士山
1934(昭和9)年のパンフレットを見ると、山中湖のまわりや、富士吉田ルートの五合目あたり、朝霧高原あたり、それから鳴沢に、合わせて4つのスキー場が載っている。ところが時代が進むにつれて、地球温暖化の影響なのか、麓にだんだん雪が降らなくなった。その一方で交通が発達して、長野や新潟などのスキー場にも行きやすくなったため、富士山のスキー場は減っていった。しかし、日本で初めてスキーが行われたのは、1910(明治43)12月27日のこと、オーストリアの軍人・レルヒ少佐が富士山の頂上近くまで登り、下山にスキーを使った。レルヒ少佐は、その翌年から日本陸軍にスキーを指導した人物で「日本スキーの父」と呼ばれる。
本栖湖の「モッシー」は実在する!?
モッシーは、当初巨大魚と思われた。1968年のある夜、ウナギを捕っていたダイバーが体長5mの巨大魚と遭遇。1972年6月の朝には、沖合に体長3mの怪魚が浮上し、尾で水面をたたいて没する様が目撃された。そして1987年、怪獣騒動が勃発。1月のある夕方、湖畔で赤富士を撮る準備をしていた人たちの前で、湖面が大きく盛り上がり、背中にワニのような突起のある全長30mの怪物が一瞬浮上したのだ。同様の怪物は10月3日にも出現。11月1日には、神奈川県在住の西健二さんが、遊覧船から湖面を泳ぐ黒っぽい怪物を撮影した。
富士山パワー・スポット・魔王天神社
富士北麓の鳴沢村に魔王天神社という名前も形態も特異な神社がある。小さな山の麓に立つ鳥居をくぐり、まっすぐ伸びる急角度の長い石段を登っていくと、そこに拝殿がある。しかし、本殿はない。拝殿の裏手、本来は本殿がある場所は木塀で囲まれ、大きな3本の三叉戟(さんさげき)と、何本もの小三叉戟が奉納されていた。武神である経津主命(ふつぬしのかみ)を祀っている。この拝殿だけの境内は、山宮浅間神社と同じく古代神社の形式だ。拝殿の背後に位置する「魔王山」をご神体として拝礼するわけだ。地元では魔王大六天(オダイローサマ)と親しまれ、戦前戦中には戦地に向かう人達の武運長久を祈願するため、多くの参拝者が訪れたそうだ。境内には「風の神」「疱瘡神」が祀られている。また、拝殿の裏の斜面を少し登ると、天狗神である古太郎坊の小祠がある。まさに、さまざまな神のエネルギーを受け取れる隠れたパワー・スポットと言えるだろう。
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武田家の隠された財宝
富士山麓には、戦国武将・武田信玄の埋蔵金が隠されているらしい。信玄は「金山衆」という優れた技術集団を使い、甲斐に眠っていた多くの金脈を採掘。甲州金を作り、徳川幕府でも採用された貨幣制度を整備した。その信玄が天下取りのために用意した蓄財を、信玄の姉の子で家臣の穴山梅雪が、信玄亡き後、武田家存亡のために富士山麓に隠したというのだ。以後、甲斐では政変が続き、ついに回収されることはなかったという。現在、武田信玄の埋蔵金が眠っている場所として3ケ所が考えられる。ひとつは、河口湖の湖底。二つ目は、白糸の滝の周辺。そしてもうひとつが樹海だ。実は樹海の中には、武田軍が築いたらしい砦の石積み(石塁)が多数確認されている。武田軍は樹海をよく知っていたと思われ、埋蔵金を隠すなら、探索が難しい樹海を選んだと推察されるからだ。はたして、埋蔵金のありかは?
富士山に登った初めての武将
歴史上著名な人物で、富士山を「眺めた」という記録は多いが、実際に「登った」という記録は非常に少ない。そのような中で、富士山に登ったことが記録にはっきり残る戦国の武将が存在する。武田信玄の父、信虎である。武田信虎が富士山に登ったのは、大永2年(1522)のことで、信玄が生まれた翌年に当たる。戦国時代の富士北麓地域の記録「勝山記」には、『武田殿富士参詣これ有り、八要(葉)めさるるなり』と記されている。「八要(葉)」とは、富士山頂部にある八つの峰のことで、信虎はこの時、富士山頂の火口を一周する「お鉢巡り」を行ったものと考えられる。
富士山が15センチ低くなった話
富士山が2015年から15㎝低くなった。国土地理院によると、これまでは基準となる三角点との距離や角度を元に標高を測る三角測量で計測していたが、2015年度の調査ではより正確に計測できる衛星測位システムを使い、再調査した。その結果、今までは前回調査の大正15年(1926)の数値3776.27mだったが、今回、3776.12mになった。国土地理院では標高をメートル単位で表記すると定めており、小数点一位を四捨五入して3776mであることに変わりはなく、2位の北岳はこれまでより34㎝高くなり3193.32m。今まで4位だった間ノ岳が3189.13mから3189.50mとなり、四捨五入で表記上の標高はこれまでより1m高い3190mと従来3位の奥穂高岳(長野県・岐阜県)と並び、同一3位となった。奥穂高岳は三角点がなくセンチ単位では比較できないという。これで山梨県は、富士山を筆頭に金銀銅を独占することになった。
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